shomanのブログ

ただの備忘録

修士課程を振り返って

修士課程を修了しました.以下は,主に自分で後に振り返るためのポエムです.

先日,東京工業大学情報理工学院情報工学情報工学コースを正式に修了し,修士(工学)を獲得した.学部も含めると5年間の学生生活だった.もっとも,小学生から含めると人生の大半を学生という身分で過ごしてきたわけで,それが今日終わると思うとなんだか不思議な気分である.

5年という期間は,大学生活として適切な長さであったように感じる.これより短いと物足りず,長くなると飽きてしまうような気がする.学部を3年で卒業し,修士は期間を延ばさす2年で修了するという選択は,我ながら幸運に恵まれたマジの最適解だった.

そもそも,修士課程に進学するという選択自体,総じるとポジティブになる.とりあえず,修士課程の中核を成す研究の話は一旦置いておくとして,修士課程の良かった点を振り返る.

まず,授業が良かった. 修士の授業内容は基本的に,学部の授業と比較して,実社会との結びつきが強い.そういった授業を好んで選んでいたこともあるが,自分の性格から,実社会との応用部分について学べる機会が与えられている環境は満足だった.広く使われている技術の裏にはどんな理論があるかを学べたり,チーム開発を体験できたことなどは良い記憶として残っている.実際に社会に出た方がよく学べるという意見はもっともであるが,それは次の点も考慮すべきである.

取れる行動の選択肢が多い. これは,大学院生は暇で時間的余裕があるという意味ではないし,大学(院)生の暇さ加減をアピって社会にネガキャン(?)する意図は全くもってない.むしろ,理系大学院生(文系については単に分からない)は基本的に授業や研究で忙しいし,定時が明確に設定されてないという点で多くの労働者よりも余暇は少ないかもしれない.

取れる行動の選択肢が多いとは,例えば,留学に行って海外で学んだり研究するという場所の選択や,ある程度の期間,様々な企業のインターンに行って複数の労働環境を経験できるという点で,選べるオプションが多いという意味である. 労働者は,あくまでも雇用主に対して価値を提供するという契約にある程度縛られるため,逆にお金を払って大学に所属している学生という身分ほどには,選択の自由度は低いと私は理解している.自分は,大学院生時代にスイスに研究留学することもできたし,色んな企業のインターンに行って(実際の業務に比べれば塵程かもしれないが)労働を体験することができた.

留学での一番の気付きは,(残念ながら研究内容ではなく)ご飯の大切さである.これは冗談ではなく,紛れもないマジで,自分にとって海外に住む上で一番重要な要素は飯だった.スイス人には申し訳ないが,スイスの料理はあまりおいしくなかった.おいしいと思ったのは半年の中で数えるほど.常にどこか満たされない感じがあって,ストレスが溜まった.日本から送ってもらったカップヌードルを,毎日食べるか否か,葛藤するほどには病んでいた.逆に,ご飯のおいしさがある程度担保されていれば,それ以外の壁はあるものの,それなりに生活できる気がする.留学での経験はポジティブなものもネガティブなものもたくさんあるが,それだけで1エントリになってしまうので,ここでは飯の重要性に触れるまでとする.

最後は,優秀な人の存在を多く感じられたことである. これはこの前の話にも繋がるが,研究室,留学先,インターン先などでマジで優秀な人に出会えたことが大きい.留学先の研究室のPh.D.の学生との議論では,頭の回転が早く過ぎて何言ってるか訳わからんことも多かったし,そもそも学生は勉強しまくっていた.インターン先では,経験に裏打ちされたゴリゴリの技術力を振りかざしている人もいた.そういった人の存在を認知できたことで,自らの未熟さに気がつくと同時に,学生生活へのモチベーションにもなった.

とりあえず列挙したところで,雑多な印象しかないが,これら3点が大きな価値だったように思える.そもそも修士に進学していない世界線を同時に体験し比較することはできないし,思い出を美化している点もあると思うが,後悔はない.

研究について

修士課程を振り返る上で避けては通れないトピックである「研究」. 最初に断っておくが,自分は大きな研究成果をあげたわけでもなければ,研究に100%全力投球できたわけでもない. その上でいくつか思う点があるので,つらつらと書いていく.

第一に,研究室の先生方がとても良い人だった. うちの研究室は週一回,小規模のミーティングがあり,そこで各々の進捗を報告するという形式であったのだが,疑問点を質問をすれば丁寧に答えてくれ,相談があればきちんと話を聞いてもらえる. 早期卒業することも留学に行くことも承諾してくれたし,基本的に学生の考えを尊重してくれたと感じている. 時に意見が合わないなと思ったときも,後々考えてみれば自分が間違っていたことがほとんどだった.理不尽なことや非合理的なことを要求されたこともない. これらを当たり前と思うかどうかは人それぞれだが,周りの話を聞く限り,当てはまらないことがしばしばあるらしいので,自分は恵まれていたのだろう.

第二に,これはネガティブな感想になるが,研究行為そのものにあまり興味を持てなかった. これは単に研究テーマが合致しなかったというありきたりな問題の帰結かもしれないし,自分の嗜好の問題かもしれない. もちろん,新しいアルゴリズムを思いついたときや,良い実験結果が出たときはそれなりに楽しさを感じたが,それ以外の時間の方が圧倒的に多かった. むしろ,その一時的な楽しさが,それ以外の諸々を打ち消すほどに,自分の中で大きくならなかったと言えるのかも.

自分は,コードを書いたり,実際に少しでも社会に役に立っていると実感できる何かを作っているときがもっとも楽しいし,そのためだけになるべく時間を使いたいと思っている. 研究をしているときでも,アルゴリズムをコードに落とし込んでいるときや,全体の設計を考えているときはワクワクしていた. 一方で,正直なところ,自分の研究内容がどれほど社会に還元されるかは未知数で,その確率はとても小さいように思えてしまった. 論文を読んでいても,時には学術的な面白みを感じることもあったが,その実現可能性に疑問を持たざるを得ないことも往々にしてあった.

無論,世の中は無数の研究成果によって成り立っているわけで,私たちはその巨人の肩の上を借りなければ,豊かな世界を観ることはできない. しかし,自分にはもっと異なるアプローチが適していると思った.

研究成果をあげている人たちは本当に尊敬するし,研究に没頭している人たちを見ると,自分には敵わないなと感じる. そもそも,研究という行為に合う人の割合は,同世代の1%くらいなんじゃないかと思ってる.それくらい自分には難しかった.

まとめ

これらの様々を経験できた修士課程を含め,学生生活は楽しかった.良き友人にも出会えたし,ここまで支えてくれた家族にはとても感謝している.

明日からは,ソフトウェアエンジニアとして企業で働く. 中学生・高校生の頃は漠然と,大学生になってからは割と明確に,ソフトウェアを作る人になりたいと思っていたので,とても楽しみにしている.